崇覚寺

宗派:真宗大谷派のお寺です。一般的に「浄土真宗」「お東」「本願寺」等と呼ばれていますが正式には真宗大谷派という親鸞聖人をご開山とする仏教の宗派で本山は京都の東本願寺です。→東本願寺HP

 

名称:正式には長嶋山崇覚寺(ちょうとうざん そうがくじ)といいます。崇覚寺は400年ほど前に現在の三重県桑名市長島町のあたりに建立されたことから長嶋山という山号がついています。崇覚寺という名称の意味は「崇」という漢字は山を仰ぎ見るという形が示す通り高くそびえるもの尊ぶという意味で、「覚」とはお釈迦様のお悟を示す漢字です。すわなちお釈迦様の悟りを崇めるお寺という意味です。

 

伝承の時代

 時あたかも戦国時代、織田信長天下統一の途上、一向一揆の制圧に手を焼いたあげく、浄土真宗の本拠、大阪石山の本願寺(現在の大阪城)攻略を決心しました。しかし本願寺は北陸・尾張・三河・近江の門徒の固い結束をもって頑固に抵抗しました。世に言う石山合戦です。

 崇覚寺の開基、水谷左衛門大夫可高は紀州雑賀の人であったと伝えられています。また一説には香川丸亀城ゆかりの人であったとも言われています。

 水谷左衛門大夫可高はこの時、教如上人(後の本願寺代十二世法主)の弟子として安養坊の名で石山合戦に参戦し、4度の出陣の後、討ち死にしたと伝えられております。この安養坊を崇覚寺の開基としております。

 その後、石山本願寺は降伏しますが、信長の後、豊臣秀吉を経て徳川家康の天下と移っていく中、西本願寺は秀吉の、東本願寺は家康のそれぞれ庇護のもと再興され、東西本願寺分立の時代へと移っていきます。そんな激動の時代の中、安養坊の子、右衛門重直も出家し教如上人の弟子となり桑名郡長島の中川村に東本願寺末寺として崇覚寺を開きました。これが崇覚寺の始まりです。

教如上人より下附された五条袈裟と珊瑚数珠
教如上人より下附された五条袈裟と珊瑚数珠

長島から名古屋へ

 江戸時代に入ると、尾張徳川の都市計画により当時、那古野と呼ばれていた名古屋の地が城下町として大々的に開発されることになり、近隣都市からの移住者により殷盛を極めていました。崇覚寺も一族の水谷八郎左衛門が尾張藩家老犬山成瀬家の用人であった関係で、寛永二年(1625年)、長島より現在の西区掘詰町に移転します。西区及び海部郡森川、安松、堀江、豊明山新田の御門徒とは、この当時からの縁故と考えられます。

 その後、崇覚寺四世永伝、五世宗故は名古屋城下への東本願寺名古屋別院を建立すべく、別院建立の中心的役割を担った城下六ヶ寺の寺院として活動し、元禄三年(1690年)ついに尾張藩の許しを得て現在の東別院の礎を築くこととなりました。

 東別院の歴史に関してはこちらを御覧ください。→東別院HP

橘町移転

古図に着色したもの。『尾張名所図会』より
古図に着色したもの。『尾張名所図会』より
幕末頃の図、向かって上には東別院、その下に左右を芝居小屋に囲まれた崇覚寺が描かれています。
幕末頃の図、向かって上には東別院、その下に左右を芝居小屋に囲まれた崇覚寺が描かれています。
大正二年、崇覚寺で宗祖親鸞聖人650回忌が 勤められた時の風景を高橋清泉画伯が描いたもの。
大正二年、崇覚寺で宗祖親鸞聖人650回忌が 勤められた時の風景を高橋清泉画伯が描いたもの。

 正徳三年(1713年)東別院建立に伴い東別院に隣接する現在の場所に寺基を移します。当時の崇覚寺本堂は東別院建立の際の余材で建立されたとも伝えられています。

 そして、その後再び、十世秀曜及び十一世可定の代、崇覚寺本堂の建替えが行われ、慶応2年(1866年)現在の本堂が完成します。

 現在の本堂は総欅(天井と内陣床は檜)七間四面、同時代(明治28年)に再建した木造建築で世界最大と言われる東本願寺御影堂を手がけた宮大工である伊藤平左衛門の手によるもので、本堂の彫り物も同じく東本願寺御影堂を手がけた名人早瀬長兵衛の手によるものです。壁画の金泥蓮華図は幕末の代表的な仏画師である鬼頭道恭の作です。

 平成二十一年、本堂瓦の葺き替えを約140年ぶりに行い、それに伴い老朽化した書院等の改築を行いました。

名古屋市の地域建造物資産に登録されています。
名古屋市の地域建造物資産に登録されています。

平成27年には国の登録有形文化財となり、経年相当の歪みや痛みはありますが概ね再建当時の面影を保ったまま現在に至っています。

東別院の賑わい

 東別院は「ごぼさま」(御坊様)と呼ばれ、古くから名古屋市民に親しまれていました。報恩講やお彼岸の時期などは、下の写真の様にとても賑わったそうです。

昭和初期の東別院界隈。向かって右上には崇覚寺の本堂大屋根が、左側には東別院の土塀とお堀、それから当時、一般の人々が日頃頻繁に出入りしていた通称「穴門(あなもん)」と言われる塀をくりぬいた門が写っています(現在はお堀も穴門も埋められています)。
昭和初期の東別院界隈。向かって右上には崇覚寺の本堂大屋根が、左側には東別院の土塀とお堀、それから当時、一般の人々が日頃頻繁に出入りしていた通称「穴門(あなもん)」と言われる塀をくりぬいた門が写っています(現在はお堀も穴門も埋められています)。
同じ場所の現在の様子。
同じ場所の現在の様子。
近頃では親鸞聖人のご命日である毎月28日の朝市や、毎月12日の縁日が開催され、往年の賑わいを取り戻しています。
近頃では親鸞聖人のご命日である毎月28日の朝市や、毎月12日の縁日が開催され、往年の賑わいを取り戻しています。